重陽の節句の菊慈童伝説の意味由来にあらすじ!菊酒の作り方は?
公開日:2015年7月18日[お酒・アルコール, 各季節のイベント, 料理, 生活の雑学・トリビア, 生活・ライフスタイル, 菊酒, 重陽の節句, 飲み物]
こんにちは、管理人のコタローです。
先日重陽の節句の食べ物や和菓子
飾りなどについて説明していきましたけど
その際に菊の香りと夜露を染み込ませた
綿などで体を拭いたり
菊酒を飲むことによって
長寿、無病息災などを
願うといったことを書きました。
当時の人たちは不老長寿になりたいが一心で
多くの人がきせ綿などで体を拭いたり
菊酒を飲むなどしていたそうですけど
そもそも何故菊が長寿の象徴になったのか
そのあたりについては
書いていなかったかなと思います。
その裏では「菊慈童伝説」という
中国から伝わる古い言い伝えが
関係しているといいます。
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それと長寿を願って作られる菊酒の作り方など
紹介していこうかなと思います。
それではしばしお付き合いくださいませ。
重陽の節句の菊慈童伝説の意味由来にあらすじ!菊酒の作り方は?
菊慈童伝説の意味や由来、あらすじについて
菊が長寿の証になった部分に
関係しているという「菊慈童」
その話のルーツは古代中国の
周の穆王(ぼくおう)の時代にまで遡ります。
周の時代の第五代目の王で
在位期間はだいたい紀元前985年~940年あたりの
人物だったようですね。
この王様、中国全土を巡るために
特別な力を持つ馬
「穆王八駿(ぼくおうはっしゅん)」を
持っていたとされ、それぞれ
「絶地(ぜっち)」
土を踏まず速く走る馬「翻羽(ほんう)」
鳥をも追い越せる馬「奔霄(ほんしょう)」
一夜で5000kmを駆ける馬「越影(えつえい)」
自分の影すら追い越す馬「踰輝(ゆき)」
「超光(ちょうこう)」
光よりも速く走る馬「謄霧(とうむ)」
雲に乗り走れる馬「挟翼(きょうよく)」
翼の生えた馬
となっており
これらで構成された馬達に馬車を引かせて
中国全土を旅して
仙人たちの住まう崑崙山(こんろんさん)などに
立ち寄ったとされています。
封神演義で有名ですね、崑崙山。
そしてその旅の最中
インドへと渡った時にお釈迦様から
この世を治めるための
四海領掌の偈(げ)(帝王の偈)を
授かったといいます。
これは秘術中の秘術であり
穆王自身もこの秘術について
語ることはなかったそうです。
何かしらの
「術」のようなものだったんでしょうかね。
それは以下の様な八句だったといいます。
十方仏土中 唯有一乗法 (方便品)
観一切法 空如実相 (安楽行品)
仏語実不虚 如医善方便 (寿量品)
慈限視衆生 福聚海無量 (普門品)
はい、要するにお経なわけですが
完全に門外漢なのでちょっと
内容的にはさっぱりです;;
で、ちょっと前置きが長くなりましたが
ここで菊慈童のルーツになった少年
「慈童」の登場。
穆王はこの慈童を
従者としてかわいがっていたそうで
江戸時代における小姓とか、お付き人とか
そういった立ち位置にあった少年だったようです
しかしある時、この慈童が穆王の枕を
何かのはずみで跨いでしまった事が知られて
罪に問われてしまいます。
そんなことで!?と思うかもしれないですけど
まあ王の頭を置く枕ともなれば
庶民にとっては恐れ多いものだったでしょう。
その枕をまたいだと慣れば大罪
死罪となってもおかしくありません。
罪は浅くはないものの
本人は故意にやったことでは
ないとしてなんとか極刑は免れます。
その代わり遠い遠い僻地、山奥へと
流刑という形で流されてしまったそうです。
人も住んでいない山奥
当時は危険生物がひしめく場所だったと
思いますから
普通の少年の身の上では
そう長くは生きられなかったでしょう。
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そこで穆王はあまりにも
慈童のことを哀れに思い
仏様から授かった
さきほどの偈(げ)の中の
最後の二句を伝えたといいます。
慈限視衆生(じげんじしゅじよう)
福聚海無量(ふくじゅかいむりょう)
この二句ですね。
意味を書いておきますと
観音様は何時もやさしい
思いやりの眼をもって私たち生きとし生ける
衆生を見てくださる。その観音様の心をもって生きれば、
海の如く無量に福が集まる
こういう意味を持つそうです。
穆王はこの二句を毎朝十方に一礼して
この二句を唱えるよう言い伝えました。
そうすれば少なくとも
野生の獣たちに襲われる事はないからと。
そして慈童はこの二句の言葉を忘れないように
玄関の横に咲いていたという
「菊の葉」に書き記したといいます。
この二句のおかげで慈童は山奥の僻地でも
なんとか生活していけたそうなんですね。
・・・王様なら枕をまたいだ事実自体
どうにかしてもみ消せなかったのだろうかと
考えてしまう自分なわけですが。。(苦笑
さて、ここで終わっておけば
まあそれなりに綺麗なお話として
まとまりそうですけど
菊と長寿の関係性がまだ明かされていません。
問題はこのあとで
菊の葉に秘術中の秘術の二句が
書かれていたこと。
その菊の葉にたまった露が
何かのはずみで川の中に
落ちてしまったんでしょう。
その露から川全体が天の霊薬となり
川は天上の甘露のように変化したといいます。
書いた文字自体もそんな効力を持つだなんて
凄まじい力を持った文字だったんでしょうね。
その川の水、もちろん下流の近くに
住んでいた村人たちも利用していたので
そのうち村人たちも長寿になって
病気もしない体となり
慈童自身もその川の水を飲んでいたため
子供の姿のまま仙人になってしまったんですね。
外見少年のままでそのまま歳をとっていく。。
このあたりはなんだか
ファンタジーっぽいですね~。
そしてそれから更に800年近く経過した後に
魏(ぎ)の文帝から使者がつかわされ
この地にやってきます。
川の水が霊薬・・つまりは
不老長寿の薬になったという噂を
聞きつけやってきたのです。
800年近く経過してもまだなお
少年の姿をした慈童は
こうなった経緯を話して
魏の文帝に秘術の二句の偈をたくし
名前を彭祖(ほうそ)と変えて
文帝の元に仕えたとされています。
杯に菊の花を添え、長寿となる術を文帝に授け
文帝は多いに喜び、盛大に菊の宴を開き
不老長寿を祝ったそうです。
この不老長寿を祝った宴が
今でいうところの「重陽の節句」に
繋がるわけですね。
本来の重陽の節句の意味は
不老長寿の仙人となった慈童にあやかり
菊酒を飲んだり
菊のきせわたなどをして
集まってくる厄災などを祓い
健康や長寿を祝い願うことなわけですが
江戸時代の頃合いにはどちらかというと
収穫祭の意味合いが強くなってきて
もちろん菊酒で長寿を祝ったりしたそうですが
栗や秋茄子などをお供えたりして
収穫に対してのお祈りもしていたといいます。
今回調べていて菊慈童についての
話を初めて知ったわけですが
まあなんとも。。
本人としては不老長寿になったことを
望んでいたのかなと考えると
なんだか切ない気持ちにもなりますね。。
菊酒の作り方について
本来は朝露の溜まった綺麗な菊などを
お酒に9日間漬け込んでおくのが
ベストだそうですけど
簡単に作るなら
「お好みの日本酒に食用菊の花びらを浮かべる」
これだけでひとまず菊酒になります。
もうちょっとちゃんとしたものを作りたい場合は
⇒⇒⇒寝かせる菊酒
こちらのように焼酎に
レモン、氷砂糖、食用菊を入れて
1ヶ月ほど密閉状態で
寝かせるという方法もあるようです。
できあがったら、ロックか
もしくは水割りなどで菊を浮かべつつ
長寿を願う。
結構風流なんじゃないでしょうか。
今回のまとめ
はい、今回は重陽の節句における
菊慈童伝説について意味由来、あらすじと
菊酒の作り方などについて
紹介していきました。
慈童と菊との関係性の部分については
なかなか調べて面白い部分が
あったかなーと感じましたね。
重陽の節句は随分と
影が薄くなっているような
印象を受けますけど
今年の9月9日には菊慈童の伝説のことを
ちょっと思い出しつつ
菊酒などを飲んで健康と
長生きを祈ってみてはどうでしょうか。
ではでは、今回の内容は以上になります。
また次回にお会いしましょう~。
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用意するといい食べ物に和菓子
飾りなどについても
どうぞご覧くださいませ。
⇒⇒⇒重陽の節句(菊の節句)に用意する食べ物や和菓子に飾りの意味は?